校祖・学祖 顕彰碑建立 | 学校法人 大乗淑徳学園
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顕彰碑建立
学祖 長谷川良信先生 50回忌顕彰事業
学祖 長谷川良信先生 生誕地 顕彰碑建立

 長谷川良信先生は、その生涯の座右の銘「感恩奉仕」そのものであり、宗教・社会福祉・教育の三位一体による人間開発・社会開発の提唱は後進の指針となっている。著書は「社会事業とは何ぞや」他、『長谷川良信全集』全4巻に収載。此の度先生の50回忌並びに淑徳大学創立50周年を記念して茲に生誕地顕彰碑を建立した。(生誕地 顕彰碑刻字より)

学祖 長谷川良信先生 生誕地 顕彰碑
慈母観音像(贈:第35回淑徳与野高校卒業生一同、昭和60年3月卒業)
慈母観音像
                            
学祖 長谷川良信先生 略歴
生年:明治23年 10月11日(1890.10.11)
没年:昭和41年 8月4日(1966.8.4)

大乗淑徳学園の学祖
大正・昭和期の浄土宗の大僧正、教育者、社会事業家。
学祖 長谷川良信先生
1890(明治23)年茨城県西茨城郡南山内村(現・茨城県笠間市)で、長谷川治衛門、なをの五男として誕生。
1896(明治29)年城県真壁郡真壁町字古城の「得生寺」(浄土宗)に養子として入籍、住職・小池智誠師のもとで得度する。
1910(明治43)年浄土宗立芝中学校を卒業し、宗教大学予科(現・大正大学の前身)に入学。在学中、終生の恩師・渡邉海旭と出会う。
1915(大正4)年東京市養育院巣鴨分院(現・石神井学園)に勤務。5月に社会事業への具体的な一歩を踏み出す。
1918(大正7)年千葉県富山「護国寺」の住職となる。宗教大学社会事業研究室に迎えられ、同研究室の実施調査部として、10月より通称"二百軒長屋"と呼ばれた西巣鴨に移住し、救済委員としての活動とともに、宗教大学社会事業研究室の学生を率いて、セツルメント(隣保)事業を開始。
1919(大正8)年「マハヤナ学園」を創立、自ら園長に就任、西巣鴨のスラムにおけるセツルメントを組織的・継続的に展開(1月)。
1922(大正11)年内務省異嘱託ならびに浄土宗海外留学生として欧米に社会事業研究のため派遣(3月・春洋丸にて出帆)。5 - 11月にシカゴ大学社会事業科で学ぶ。11月ドイツに入国。ベルリン女子社会事業学校に学び、ヘスクノップ教授に師事し、「ドイツ社会政策の基礎的問題」をテーマに研究生活に入る。
1923(大正12)年ベルリン女子社会事業学校修了。関東大震災の報に接し、急遽、留学予定を変更し、シベリア鉄道経由で帰途につく(9月)。
1924(大正13)年マハヤナ学園内に大乗女子学院(夜学)を創立し、隣保事業の延長として勤労女子の教育に乗り出す。
1925(大正14)年大乗女子学院を巣鴨家政女学校(昼間)に発展的に改組、女子実業教育に歩を進める。
1931(昭和6)年財団法人大乗学園巣鴨女子商業学校を開校。
1944(昭和19)年浄土宗教育資団「淑徳高等女学校」第八代校長に就任した。
1945(昭和20)年浄土宗教育資団・東京保育学校長に就任した。
1946(昭和21)年淑徳女子農芸専門学校を埼玉県与野(現・さいたま市与野)に創立し、自ら初代校長に就任した。4月に埼玉県与野市(現・さいたま市与野) に淑徳与野高等女学校の設立許可を得て、自ら初代校長に任ず。そして、11月に宗議により淑徳高等女学校を板橋区志村の現在地に移転を決定 した。
1951(昭和26)年檀林・大巌寺第六十世住職となる。
1953(昭和28)年単身で第1次ブラジル渡航。南米浄土宗別院日伯寺創建。
1957(昭和32)年佐々木陽明師と長谷川良昭師等をともない第2次ブラジル渡航。日伯字学園開設、知的障害児施設イタケーラ子供の園(現・こどものその)開設。
1962(昭和37)年東京都体育館で淑徳創立70周年記念式典挙行。四年制大学の設置構想。
1965(昭和40)年淑徳大学社会福祉学部開学、初代学長。
1966(昭和41)年8月4日午前2時40分遷化。享年75歳。
学祖五十回忌顕彰事業記念式典
日時 平成27年9月9日水曜日
場所 顕彰碑設置場所(茨城県笠間市)
 
法要
法要
除幕
除幕
除幕
除幕
指名焼香(長谷川理事長)
指名焼香
学祖 長谷川良信先生 生誕地 顕彰碑 建立場所
茨城県笠間市本戸981番地
茨城県笠間市

笠間市(かさまし)は、茨城県の中央部に位置し、首都圏から約100キロメートル、県都水戸市に隣接し、総面積は、約240.40平方キロメートルとなります。区域は、東西約19キロメートル、南北約20キロメートルで構成され、北部は城里町、栃木県、西部は桜川市、東部は水戸市、茨城町、南部は石岡市、小美玉市に隣接しています。地勢は、市の北西部は八溝山系が穏やかに連なる丘陵地帯で、南西部には愛宕山が位置し、北西部から東南部にかけ、おおむね平坦な台地が広がり、本地域の中央を涸沼川が北西部から東部にかけ貫流しています。気候は、夏は気温も湿度も高く、冬は乾燥した晴天の日が多い、太平洋型の気候となっております。

市の花「きく」、市の木「さくら」、市の鳥「うぐいす」

(出典先:「かさま くらしのガイドブック」 平成28年7月発行 8-9ページ 発行:笠間市、株式会社サイネックス)



校祖 輪島聞声先生 100回忌報恩記念事業
顕彰碑 建立

校祖 輪島聞声先生100回忌報恩記念として生誕地、北海道松前郡松前町に顕彰碑を建立いたしました。 刻字された「進みゆく世におくれるな、有為な人間になれよ」は、今から約130年前の明治25年、校祖輪島聞声先生が淑徳中学高等学校の前身である淑徳女学校を創設される際に掲げた理念です。「時代の流れに乗り遅れず、それぞれが能力を発揮し、役立つ人間として生きてほしい」というメッセージは、21世紀を迎えた今もなお多くの人びとのこころに響きます。

 「信と忍とは、万善万業の基礎なり」は、亡くなられる年に書かれた輪島先生の遺墨に記された書であり、信と忍を実践された近代日本の仏教女性教育者の第一人者であった。 〈淑徳中学高等学校HPより引用〉、<参考文献>『大乗淑徳教本』

校祖 輪島聞声先生 100回忌報恩記念 顕彰碑
校祖輪島聞声先生100回忌報恩記念 顕彰碑
顕彰碑全文は画像をクリック
                            
校祖 輪島聞声先生 略歴
生年:嘉永5年 5月15日(1852.7.2)
没年:大正9年 4月3日(1920.4.3)

大乗淑徳学園の校祖
明治時代の浄土宗の尼僧,教育者。
校祖 輪島聞声先生
            
1852(嘉永5)年松前藩福山(北海道松前郡)に生まれる。
1876(明治9)年浄土宗の僧福田行誡上人導師に得度東京の感応寺に住む。
1879(明治12)年京都知恩院内の入信院に移り,浄土宗大学林に入学。
1886(明治19)年浄土宗議会に尼僧教育に関する意見書を提出。
1888(明治21)年知恩院山内に尼衆教場を創設。感応寺の住職に任命され東京に戻る。
1889(明治22)年東京芝増上寺山内に東京尼衆教場を開設,監督兼教授に就任する。
1891(明治24)年浄土宗務所に普通女学校設立願を提出。
1892(明治25)年東京小石川の伝通院境内に淑徳女学校を創設した。
1903(明治36)年学校を浄土宗立とし監督に就任。
1906(明治39)年高等女学校令により私立淑徳高等女学校と改める。
1912(明治45)年私立淑徳高等女学校の監督を辞任、顧問に就任
1913(大正2)年神奈川県鎌倉に聞声庵を建てる。
1920(大正9)年東京・感応寺で69年の生涯を閉じられた。
参考文献『大乗淑徳教本』
校祖 輪島聞声先生 100回忌報恩記念 顕彰碑除幕式
日時 平成30年6月1日金曜日
場所 顕彰碑設置場所(北海道松前郡松前町)
 
法要
法要
顕彰碑除幕
顕彰碑除幕式
顕彰碑除幕
顕彰碑除幕式
校祖 輪島聞声先生 100回忌報恩記念 顕彰碑 建立場所
北海道松前郡松前町(小板様宅脇)
北海道松前郡松前町

校祖輪島聞声先生の生誕地松前町(まつまえちょう)は、北海道の最南端に位置し、西は日本海、南は津軽海峡に面し、東西約50km、面積は293.25k㎡で、国道228号線沿いに集落が形成されています。白神岬の絶景、折戸浜・小浜の海岸景勝など、海岸線は変化に富んだ景観を有し、オオミズナギドリの繁殖地として知られる渡島大島、ケイマフリなどの繁殖地である松前小島とともに、松前・矢越道立自然公園に指定されています。

(出典先:松前町役場HPより)